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学会の歴史

故早野三郎先生執筆資料から抜粋

人工水晶体研究会

昭和50年(1975)春、早野三郎は人工水晶体挿入術を始めていた眼科医に、人工水晶体 とそれに関連する手術についてお互いに情報を交換するために研究会の立上げを呼びかけ、第1回の会合を7月26日、岐阜市司町、岐阜大学医学部付属病院眼 科病棟カンファレンス室で開催した。出席者は林文彦、宮田典男、竹内光彦、山中昭夫、深道義尚、村田忠彦、小暮文雄、早野三郎、田中恭一。人工水晶体に関する情報、会員相互の研究交換・切磋琢磨並びに普及を目指し「人工水晶体研究会」と名付けての船出であった。

日本眼内レンズ研究会 (Japan Intraocular Lens Implant Club : JI0IC)

昭和51年(1976)人工水晶体研究会は、昭和53年(1978)開催の京都国際眼科学会のサテライトシンポジウムの一つに予定された第5回国際眼内レンズ学会(the 5th Meeting of the IIIC: IIIC=International Intraocular Lens Implant Club)の受け皿となって機能するために日本眼内レンズ研究会と改称した。
永田誠 尾崎吏恵子、百瀬皓、菅謙治、湖崎弘、馬嶋慶直、五藤宏、杉田慎一郎、比嘉弘文、武藤興紀、星兵仁等が順次会員となった。

年2~3回の研究会では、会員各自の経験例を述べ、忌憚のない意見を交換する一方で、眼内レンズヘの理解と普及を図るために講習会を行なった。第1回の講習会は、昭和51年(1976)7月25日名古屋、第2回は11月21日東京、第3回は昭和52年(1977)2月20日福岡、各地とも定員60名を超え70余名の受講者があった。講習会は、眼内レンズ(人工水晶体)の概説、当時主流であった虹彩支持レンズの挿入手技(ビデオ供覧)、術前術中術後の処置、管理を解説した(講師:竹内光彦、林文彦、山中昭夫、百瀬皓、永田誠、宮田典男、早野三郎)。特に、漸く芽生えた眼内レンズの有用性を十分に弁え、適応と禁忌(下記)を厳守、厳格な管理をして取り組むようにと強調した。

適応について

  1. 60歳以上の高齢者の片眼白内障で、他眼の視力が0.6以上のもの
  2. 手術の内容を説明し、患者がそれを希望した場合
  3. 白内障手術に習熟した術者、さらに眼内レンズ手術についで訓練を受けていればより望ましい
  4. 術後管理が行なえる患者であること

禁忌について

  • -5D以上の近視
  • 慢性葡萄膜炎
  • 緑内障(薬物で眼圧を調整できないもの)、浅前房、瀘過手術後の患者
  • 大きな虹彩欠損
  • 角膜内皮障害
  • 糖尿病
  • 一眼がすでに無水晶体であるもの

昭和51年(1976)秋、Los Angelesで開催された2nd US Intraocular Symposium & 4th Meeting IIICにJIOICの会員が多数参加、早野三郎は試作レンズを発表した。IIICの連絡会議でthe 5th Meeting of the IIIC 1978, Nagoya, Japanが正式に決定した。昭和52年から53年(1977~1978)にかけて、日本の眼科医は国際眼科学会の準備に忙殺されたが、1978年5月22・23日、名古屋のthe 5th Meeting of the IIICは9ヶ国150名の参加者、Choyce DP:Ridley Medal Lectureの他35演題の発表があって成功、また眼内レンズ挿入の白内障摘出は嚢内から嚢外に、前房レンズや虹彩支持レンズから後房レンズヘと変りつつあることを示す学会であった。

この国際学会を境に、眼内レンズへの関心は次第に高まり、各地の集談会や地方学会で会員以外による経験例が報告されるようになった。研究会は「眼内レンズや手術小器械の入手方法、手術ビデオの貸与、安価な国産眼内レンズの開発、保険診療への収載」等を求める声と「なお、安全無害の証明なし、異物挿入は危険、安易に行なうな、医療事故を惹起する」等が問われた。このよう状況をみて、限られた会員による同好会とは別に広く演題を募集、第1回の会を昭和54年 (1979)まず岐阜大学で行ない、以後昭和大学深道義尚を世話人に、第2回1980年和歌山医大、第3回1981年山口大学、第4回1982年京都府立医科大学、第5回1983年岐阜大学、第6回1984年京都大学の担当校のもとで、日本中部眼科学会のグループディスカッションとして続けられた。研究会には大島健司、三宅謙作、原孜、西興史、今泉信一郎が加わり、懸案となっていた眼内レンズの臨床治験についての検討を、岐阜大学を拠点に開始した。そこで、昭和54年(1979)研究会の事務所は、岐阜大学から昭和大学に移転した。昭和55年(1980)昭和大学主催の眼内レンズ研究会は演題も多彩、後房レンズ開幕であった。

日本眼内レンズ学会

眼内レンズは、なお医療用具として未承認の時期であったが、米国の2~3の有力メーカーによる著名な眼内レンズ手術者を来日させての講習会は、自社製品の宣伝紹介に市場開拓を兼ね、同時に、厚生省に輸入販売を求め、それに必要な臨床治験となった。研究会は、医療用具に認可されるまでは、「眼内レンズ手術の有用性を損なわないよう慎重に」と機会あるごとに注意を喚起していた。保険適用については昭和54年(1979)10月、日本眼科学会保険部会から新技術開発として外科系保険部会に申し入れたが、手術点数全般を改定中で他科との兼ね合いからも、将来の検討課題になろうと棚上げされた。厚生省は、国内外数社からそれぞれの眼内レンズについての臨床治験成績をまとめた医療用具承認申請が、相次いで提出されたのを「眼内レンズ承認基準」に基づいて審査し、中央薬事審議会の議を経て、昭和60年5月31日国内の製造1社、外国製品の輸入販売6社に認可を与えた。日本眼内レンズ学会はこの認可により、眼内レンズの販売、眼内レンズ手術件数の増加を予想し、それにともなって生ずる諸問題には、研究会を発展的に解消して学会組織としての対応を要すると、世話人会を昭和60年(1985)9月15日開催した。学会立上げの世話人には早野三郎、林文彦、三宅謙作、小暮文雄、深道義尚、宮田典男、馬嶋慶直、星兵仁、湖崎弘、永田誠、山中昭夫、武藤興紀、比嘉弘文、菅 謙治、杉田慎一郎、大槻潔、原孜、竹内光彦、稲富誠、江口甲一郎を委嘱した。同日、学会会則案を検討、常任理事、監事・理事長を選出、事務局を福岡市の林眼科病院内に置き、会則の整備、事業計画、予算などを諮り、またNewsletterを発行、会員に配布することとした。

学会誌発行までの繋ぎのNewsletter(1986.3~1987.4)は、昭和61年(1986)の事業計画・予算案、第1回の学会を昭和61年 7月6日福島県立医科大学加藤桂一郎会長、当学会は星兵仁理事を担当とし、第25回白内障学会と同時開催とすると発表、関係雑誌に会員募集とともに掲載した。また、教育担当の馬嶋慶直理事は学会主催の実技講習会を、昭和60年(1985)福岡(10月5.6日)、名古屋(11月9.10日)、札幌(12 月7.8日),昭和61年(1986)大阪(2月22.23日)、仙台(3月8.9日)で実施と予告した。昭和61年(1986)3月21日福岡,3月22日 名古屋、3月23日 東京では、学会主催の学術講演会(専門医制度生涯教育事業認定)「Emery JM:アメリカにおける最近の計画的嚢外法と後房レンズ移植術、シンポジウム:眼内レンズ手術の併発症とその対策」が行なわれた。

世話人=役員の他は少数の会員でのスタートも「本会は会員の研究の便を計り、眼内レンズ及ぴその手術手技に関する正しい普及と進歩を計るのを目的とする」との学会の主旨とその後の実践活動に賛同して400名を数え、第1回日本眼内レンズ学会への演題申し込みも順調であった。

理事会では、過密となっている学会開催と日程を緩和するのに、共通な問題を研究対象としている日本白内障学会と本会とは、役員数人が重複していて同時開催が可能ではないかと、日本白内障学会馬嶋理事長にこの試みを提案して了解を得た。同時開催は両学会会員に白内障の基礎と臨床とに関わる研究の場と理解し、この交流形式を原則として持続するようにした。また、眼内レンズ手術が円滑に行なわれるには、これに携わる看護師、検査員らが医師と一体となって新技術を学ぶことが必要不可欠、関係者の絶大な尽力により教育セッションプログラム(看護婦、手術補助者並びに0RTを対象)を、米国のNursing Programにならって創設した。非常に好評で、以来本学会に併設・継続されている。さらに、この内容は翌年「ナース・パラメディカルのための眼内レンズセミナー(Ⅰ)」の書名で出版され、ナース以外に、医師初心者、医療器械取り扱い者等の眼内レンズ解説書となった。

このように学会は回を重ねるごとに、一般講演・ビデオ講演の演題数は増加、眼内レンズとその手術の進歩・発展を時宜に適した課題として招待・特別・教育講演、シンポジウム、ワークショップに各学会長が取り上げて充実した運営をされた。昭和62年(1987)学会の基盤は十分でなかったが、敢えて学会誌「IOL」を季刊発刊し,第7巻をもって名称変更された。

日本眼内レンズ屈折手術学会

眼内レンズ手術の適応が拡大されるにつれて、幅広い屈折度のレンズが使用されるようになり、眼内レンズ手術は術後の視力矯正を目指す屈折手術であると位置づけされるようになった。屈折矯正手術、正常透明な角膜に切開を加えるRadial Keratotomy(RK)は、日本の眼科医にはなんとなく馴染み難かったが、米国の眼内レンズ学会(American Intra-0cular Implant Society;AI0IS)は、1986年よりAmerican Society of Cataract and Refractive Surgery:ASCRSと改称、RSのみでなくエキシマレーザー等による屈折手術のすべてを対象とする学会に改組した。

わが国でもエキシマレーザーによる屈折矯正を含む角膜疾患の臨床治験が開始され、どの専門領域の学会で対応するか議論されたが、欧米と同様に当学会が担当するのが筋との意見が大勢を占め、平成5年(1993)6月19日の理事会で、屈折矯正手術を日本眼内レンズ学会に組み入れることが承認され、平成6年 1月1日より名称を「日本眼内レンズ屈折手術学会、Japanese Society of Cataract and Refractive Surgery(JSCRS)」に変更、角膜と屈折の専門家を役員に加え、学会誌名も「IOL&RS」と改めた。